愛本新用水

 愛本新用水は、宇奈月町愛本新、入善町旧舟見町、旧野中村を開拓するために開削された用水である。

 元来この一帯は雲雀野(ひばりの)といわれ、林野の中に田畑がわずかに点在する荒蕪地であったが、寛政年間(1789~1800)この地を裁許していた十村の伊東彦四郎が開拓の目的で本用水の開削を加賀藩に願い出た。彦四郎は愛本橋よりずっと奥に入った音沢村辺りから取水する長大な用水路案を藩の改作奉行所に提出した。

 藩では、寛政9年(1797)4月に加藤左次馬、6月に中村宇左衛門の見分があり、やがて藩庁は彦四郎を呼び出し、用水開削の許可を与えた。

 工事は寛政9年春から着工したが順調に進み、5年後の享和2年(1802)の冬に完成したという。

 愛本新用水の開削成功をうけ、舟見野の開拓が進み、文政4年(1821)愛本新村の1村建てとなり天保9年(1838)には新開高760石に達した。

 愛本新村は用水の恵みを受けるようになった下流の村々と、用水の宮として、前田氏ゆかりの天満宮を建立した。今も、毎年10月15日には愛本新用水天満宮たいまつ祭が行われているが、用水が流れてきたのを喜び、人々が手に手にたいまつをかざし、水とともに下流へ走ったのが始まりとされている。

 本用水は、初め宇奈月町音沢集落南端で黒部川本流より取り入れ、それより黒部川右岸の山腹を開削し、明日(あけび)大門橋に至る約8キロメートルを導水していたが、明治12年(1879)7月、黒部川の大洪水によって水路400メートルを決壊し、その上、黒部川河床が洗掘急低下して取水困難となった。

 よって、上流へ200メートルのトンネルを掘削し、取水口を移動したが、14年春以来の洪水で更に河床が低下して取り入れが不可能となった。

 用水組合では夫役と借財に耐えかねて、県に願い出て助成を求めたところ、内務省御雇工師の出張検分となり取入堰の完全化を勧告し、工費15万円の見積りを示したという。

 用水組合では止むなく以前のトンネルを掘り直したところ、意外に成功してその後に及んだ。

 昭和11年(1936)当時の富山県電気局が愛本発電所(現在は関西電力株式会社に所属)を建設した際、同発電所水槽から分水を受けることとなり以後、音沢取水は廃止したが、音谷川の水温が若干高いところから音谷川取水も併用している。

 本用水の開削時は舟見野用水と呼んでいたが四千石用水も古来舟見野用水と俗称され、紛らわしいため享和2年(1802)以降は愛本新用水と改称された。

 本用水は、明治44年(1911)、愛本新用水普通水利組合を設立し、舟見町長が管理者として維持管理に当たって来たが、昭和26年(1957)同組合を組織変更して愛本新用水土地改良区として今日に至っている。

 ちなみにかんがい面積は325ヘクタールである。

 

富山県土地改良史編さん委員会:「富山県土地改良史 -豊かな大地に-」(平成16年10月発行)より

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