用水の沿革

(1)上市川流域の概要「江戸前期に流路が一変した上市川」

上市川は、北アルプス立山連峰の早乙女岳(標高2025メートル)に源を発する千石川と、大辻山(同1361メートル)から流れる小又川が上市町千石地区で合流して本流となっています。
東に早月川、西に白岩川の流域に接しながら山峡を北西に向かって流れた後、釈泉寺地区周辺で平野部に入る。上市町市街地を通り、滑川市赤浜地区で右岸から郷川を取り込んで、富山市水橋を経て滑川市西端の高月海岸で富山湾へ注いでいます。
流路延長24.1キロメートル、流域面積97.8平方キロメートルの二級河川。富山県の他の河川と同様に急流河川であり、洪水のたびに氾濫して流域一帯に多大の被害を及ぼし、何度も流路を変えてきました。
上市川はかつて、平野部に出た後、上市町極楽寺地区から西へ流れ、北島地区と稗田地区の間を通って正印地区と川原田地区の間を抜けて白岩川に合流していました。江戸時代に幾度も洪水に襲われ、特に延宝4年の洪水では、北流によって野島地区が全壊し、上市村の草高(米の収穫総高)1687石が半減したと伝えられいます。
このため、正印村の十村役、次郎兵衛は極楽寺と北島に二重の堤防を築く大工事を行い、上市川が白岩川へ流れ込む河道を締め切って郷川と合流するようにしたのが現在の河道です。

 

(2)農業用水の歴史

上市川を水源とする用水は13系統が確認されており、左岸では上流から順に、極楽寺地先で丸山用水、その下流70メートルで湯神子用水と極楽寺用水、眼目新地先で湯神野用水が、さらにその200メートル下流で八ケ用水が取水していました。
しかし、これら用水の取水設備のほとんどは、伝統的な木工沈床による床固めと川倉、蛇籠で作られており、極めて脆弱であるため、少しの出水でも流出していました。
一方、下流域においては湧水と自噴水が重要なかんがい水源となっていました。左岸では上市町の森尻、大永田、江上、江又、青出、飯坂、久金、富山市の水橋高寺、同水橋専光寺、右岸では上市町の郷柿沢、柿沢新であり、両岸で約362ヘクタールに及びました。これらの地域では溝渠内に豊富な水が湧き出ているだけでなく、水田のいたる所に掘られた井戸から自噴水が上がっていました。しかし、井戸は5年程度で枯れてしまうため、掘り替えを行わねばならず、また、かんがい期間中の湧水の温度は13~15℃と低いのも難点で、周辺の水稲は青立ちが発生していました。

 

(3)戦後の土地改良事業

①上市川沿岸用水の合口化と流水客土による用水不足の緩和

上市川の沿岸域では昭和22年(1947)に続いて23年も連続して渇水となったのを契機に、同川筋用水を管理する南加積村外三ケ村組合(管理者・青木憲治宮川村長)が中心となって25年(1950)に上市川沿岸用水合口事業期成同盟会(会長・宮川村長)を結成し、国、富山県に事業の実施を働きかけました。それを受けて、県営上市川沿岸用水改良事業を昭和26年(1951)度に着工し、昭和34年(1959)度に完成しました。その概要は次の通りです。
上市川上流の釈泉寺地先に合口化した頭首工を設置し、共通幹線水路を経て410メートル下流の釈泉寺川原地先に左右両岸の用水に分水する円筒分水槽を建設、左岸では極楽寺用水など6用水へ、右岸では広野用水など5用水へ分水、左岸では円筒分水槽から県道伊折上市線に沿って左岸幹線水路に流れ、途中で極楽寺、丸山、湯神子、湯上野、八ケ用水支流の向法音寺用水へ、さらに上法音寺地先で八ケ用水支流の若杉用水など5用水に連絡させました。
一方、右岸幹線水路は円筒分水槽からサイフォンで上市川を横切った後、ほぼ旧広野用水のルートで永代野段丘の中腹を流れ、広野集落南端で広野用水支流の東又など5用水につなげ、この間、眼目用水と野島用水に分水するほか、野島集落の南端では田島、広野新、三ケの3用水に向けて新設した田島用水連絡水路を分岐、田島用水連絡水路は広野区画整理地区内を通り、斉神新地先で田島用水の旧水路に入った後、田島用水に分水、さらに上市高校裏で広野新用水と三ケ用水に連絡させました。円筒分水槽は当時、富山県では数少ない工法として注目されました。
県営上市川沿岸用水改良事業の特徴的なものとして、黒部川扇状地とともに日本で初めて実施された流水客土事業があります。
上市川流域は砂質浅耕土地帯で保水力が低いことから、田面から地中に水が浸透していくのを抑えることで用水量の節減を図り、また河道でも浸透による水量の損失を防止する必要がありました。客土に使われたのは眼目地内の菖蒲田丘陵の赤土8万9000立方メートル。採取した赤土をスラッジ状にし、左岸幹線水路や用水などを通じて上市川両岸の289ヘクタールにかんがいし、対象範囲は眼目、野島、湯上野、眼目新、北島、法音寺、若杉、柳町の8地区で、対象面積が約600ヘクタール、農家数は750戸に及びました。
流水客土は用水不足を緩和するだけでなく、老朽化した水田を若返らせ、田面の水温も上昇することから、生産能力の向上が期待されました。

②ダムと発電所の建設

上市川ダムおよび発電所の建設
昭和27年(1952)7月に富山県東部を襲った大洪水以来、各河川で計画的な改修工事が進められました。上市川でも改修計画が立てられ、30年(1955)度から県営事業として築堤、護岸などの工事が実施されたほか、34年(1959)度に水源の上市町稲村で、上市川総合開発事業の一環として洪水調整と発電を行う多目的の県営上市川ダムの建設に着手、39年(1964)度に完成しました。しかし44年(1968)8月の大水害は改修計画の見直しを迫り、県は上市川ダムの上流2.3キロメートルの左岸・東種、右岸・稲村で50年(1975)度から県営上市川第2ダムの建設を始め、60年(1985)度に完成させました。
さらにその上流には水路式の県営上市川第3発電所があり、発電、洪水調整、灌概に利用されています。