大久保用水の歴史

藩政の頃

神通川の隆起扇状地の中位段丘に位置する塩野の開墾は、富山藩によって寛保元年(1741)に計画されました。しかし、水を引くために莫大な費用がかかるため断念しましたが、25年後の明和3年(1766)ようやく着工し、安永7年(1778)頃に神通川から引水して水田が開かれました。しかし、天明6年、寛政元年(1789)の洪水によって大破し、用水を修復できず農地が荒廃してしまいました。

寛政11年(1799)、富山藩第8代藩主前田利謙は用水の改修と塩野の再開発を決定し、水路の大改修を行い、十分な用水の確保により入植者も増えて開発も進みました。開発が進むと従来の用水では水量不足をきたし、文化年間(1804~1817)には再度の用水拡張に迫られました。このとき広大な東大久保の開発を目指し、用水の拡張工事に参加したのが岡田屋嘉兵衛こと三輪日顕(みわにっけん)です。

日顕は、笹津の取水口を3間幅(5.4メートル)とする大改修に加え、東大久保より東に水路を8km開削する計画を立案しました。私財を投げつつ、近隣の村から労役を募り、大洪水による工事の遅れなど多くの苦難・苦心の末に文化10年(1813)にようやく完成しました。
その後も、洪水による凶作が続くと生活の困窮から文化10年(1813)には富山藩最大の農民一揆が起こり、塩野開発に関わった日顕らの屋敷が打ち壊しに遭うことになりました。
しかし、大久保用水がこの地域の農業に多大に貢献したことから、一揆から50年後の万延元年(1860)、大久保の人々によって日顕の功績を讃えて彰徳碑が建立されました。

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神通川右岸の合口化

戦後、経済活動による電力需要に応えるために、昭和28年北陸電力(株)は神通川上流の猪谷から笹津までに神通川第一、第二、第三と3つの発電専用ダムの建設計画を発表しました。

第三ダムでは大久保用水の取水口が水没するため、新たな取水口を第三ダム(神三ダム)右岸に設置することになりました。これに合わせ、新保用水土地改良区の幹線用水路である新保用水路と合口化することになり、昭和31年に県営かんがい排水事業として着手しました。第三ダムから大久保発電所までの合口幹線水路の建設、大久保用水路、新保用水路の改修を10年の歳月をかけて昭和41年に完成しました。

その後、合口用水路の老朽化に伴い、一部には危険箇所もあったことから、昭和63年から平成12年(2000)にわたって県営かんが排水事業 神通川右岸合口地区として、大久保用水と新保用水の合口用水路および新保用水との分岐点から大久保用水路にあわせて7145メートルが改修され、現在に至っています。

がめ宮

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大久保用水上流の崖下に「ガメ」(河童)が出没して人々を困らせたと云われていました。文政5年(1822)、三輪日顕らにより用水路の安全を祈願した水神社が建立されました。現在も祭礼が行われ、川に転落した用水番などの魂を鎮めています。

 

 

 

 

記念碑

image08大久保発電所取水口横には、県営かんがい排水事業の竣工を記念した記念碑が建立されています。

 

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