用水・土地改良の歴史

神通川左岸合口用水

■開削の歴史

神通川左岸のエリアでは、古来から五つの主な用水が神通川から取水していました。
①八ヶ用水は天明年間(1781~1788)に成子村に取水口を有して開設された用水で、旧宮川村の上新屋、旧熊野村の萩島、十五丁、持田、中ノ名、道場、清水島、旧速星村の砂子田の8地区をかんがいしていました。
明治7年(1874)の神通川改修によって取水口を旧宮川村の新屋地先に改めました。
②六ヶ用水は添島、蔵島、上轡田、下轡田、田島、上田島の6地区をかんがいしていました。明治27年の神通川氾濫で取水困難に陥り、昭和7年(1932)の洪水を機に八ヶ用水の取水堰を共用していました。
③青島用水は数百年前に小松某の開拓とともに開削した用水と伝えられている。かんがい地域は旧宮川村新屋、旧熊野村青島、萩原、持田の4集落でした。
④本郷用水は、本郷一帯を徳兵衛という農夫が開墾し開削したことから徳兵衛用水と呼ばれていました。明治28年(1895)の洪水により取水設備を流失し六ヶ用水と合堰しました。かんがい区域は旧熊野村添島の一部、旧速星村増田御門地内の一部、旧鵜坂村田島、轡田、本郷、下坂倉でした。
⑤十二ヶ用水は神明村、鵜坂村の一部をかんがいしていました。開削時期は不明ですが、明治21年頃に閘門を改築し用水普通水利組合を設立していました。

■合口化

大正7年(1981)に着工した神通川改修により川の流れが変わってしまい、八ヶ用水、六ヶ用水、青島用水、本郷用水、十二ヶ用水の取水が困難になりました。
これと同時期に高岡電燈(株)(現在の北陸電力(株))が神通川第三ダムから取水を利用して、第4(薄島)発電所、第5(成子第二)発電所の建設を計画していたことから、発電所放水路から農業用水を安定的に取水する合口化の工事を昭和5年~9年にかけて実施されました。
その後、昭和46年~平成2年にかけて県営かんがい排水事業 神通川左岸合口地区において、幹線用水路、本郷用水路、十二ヶ用水路の改修が行われ、現在に至っています。

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てっぽうだま記念碑(昭和10年)      神通川左岸用水合口事業記念碑(昭和54年)

カドミウム汚染田復元

カドミウム汚染田は、神通川の上流、岐阜県吉城郡神岡町(現:飛騨市神岡町)にある三井金属鉱業(株)神岡鉱業所(現:神岡鉱業(株))からの汚染排出水が原因でした。
富山県では、流域の土壌調査を行い1,500.6ha(ヘクタール)の農地を「農用地土壌汚染対策地域」に指定し、昭和54年~平成23年度まで33年もの期間をかけて、カドミウム汚染田の復元工事を実施してきました。

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客土の搬入                                 復元された農地

工法等の概要は、「富山県イタイイタイ病資料館」のホームページで紹介されていますので、そちらをご覧下さい。

 

 

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