新保用水の歴史

 ◆九ヶ村用水と四ヶ村用水(新保用水)の開削

九ヶ村用水は、古くから井堰を神通川本流の大久保村小字大島地先に 設置して樋橋川に水を引き、新保村の東部、南部をかんがいしていました。四ヶ村用水は、神通川本流の塩村北端の神通地先より取水、神通村、押上村を経て新保、任海、秋ヶ島、経田の4カ村をかんがいしていました。
これらの用水は古くから存在していましたが、明治期になって大改修が行われることになります。

 

◆九ヶ村用水と四ヶ村用水の合口による新保用水

九ヶ村用水は井堰により水を取り込んでいましたが、井堰は増水や氾濫などで損壊したり流失したりすることもありました。また、井堰による取水では、川の水量が多いと用水の水量も多くなるなど、水量に大きな影響がありました。明治32年(1899)4月、富山電燈株式会社による大久保用水を利用した水力発電所が設置され、発電所で利用した水を九ヶ村用水に合流させることにより、九ヶ村用水の水量は安定したものとなりました。
大正7年(1918)からの神通川大改修による河床の低下で水面も低くなり、用水は井堰による取水が難しくなり、昭和3年(1928)頃、九ヶ村用水と 四ヶ村用水の合口工事を内務省の付帯事業で行うことになりました。昭和13年、九ヶ村用水が合口化されて新保用水土地改良区の前身である「新保用水組合」が発足しました。当時のかんがい面積は407ヘクタールでした。

 

◆神通川右岸の合口化

昭和26年(1951)6月の大洪水で塩村大島地先の新保用水取水井堰が流失、本流の変化も加わって取水できなくなりました。同年に緊急災害対策復旧事業として取入口を上流の大沢野町岩木新地先とする工事を実施、翌年に完成しました。この取入口は昭和41年の合口用水路が完成するまで利用されました。
戦後の旺盛な経済活動による電力需要に応えるために、昭和28年北陸電力株式会社では神通川上流の猪谷から笹津までに神通川第一、第二、第三と3つの発電専用ダムの建設計画を発表し、電力側と県との交渉を経て、昭和31年に大久保用水との合口が県営かんがい排水事業として実施されました。第三ダムから大久保発電所までの合口幹線水路を建設し、大久保用水2,300メートルを改修しました。新保用水は、大久保発電所から九ヶ村・四ヶ村用水の分岐地点までを鉄管水路や暗渠水路に改修し、通常の水路も改修されて、1,308メートルに及ぶ用水路の工事を10年を要して昭和41年に完成しました。
昭和41年から48年にかけて新保用水(九ヶ村用水、四ヶ村用水の分岐点より下流)が団体営かんがい排水事業で改良されました。
その後、合口用水路の老朽化に伴い、一部には危険箇所もあったことから、昭和63年から平成12年(2000)にわたって県営かんがい排水事業 神通川右岸合口地区として、大久保用水と新保用水の合口用水路および新保用水との分岐点から大久保用水路の合わせて7,145メートルが改修され、現在に至っています。

 

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