四千石用水の紹介

◆四千石用水(しせんごくようすい)

四千石用水が水を送っている区域は入善町野中地区から朝日町月山地区までの田畑で約625haに、毎秒最大、約4.0(m3/s)立方メートルの水を送っている用水です。

 

◆四千石用水の意味

最初の用水が狭く、後に拡幅したことにより、この用水で潤す田圃から、四千石余りに値する米が取れるようになりました。その時から舟見野用水または野中用水と言っていたのを四千石用水と言うようになりました。(俵にして10,000俵・現在はその約6倍の収穫があります)
*米1石とは、米10斗(150㎏)・俵にして、2.5俵/60㎏入り(現在の紙袋30㎏入りで、5袋です)

 

◆用水を作った理由

この地区は昔、善万野または雲雀野といって、広漠たる沃野(地味の肥えた平野)にして段丘の上にある台地で水が無く、時の人達が相談し黒部川より水を取り入れ水田を作ろうと考えました。

 

◆工事の経緯

今より約260年前の寛延元年の頃、黒部川に7ヶ所もの取水口を掘ったが水が上がらず、江下の16ヶ村(西中・中沢・中村・下野・島迷・二ッ屋・今江・林尻・古畑・藤塚・横道・愛場・小在池・坊・細野・越・花房・山崎新)の者及びその筋に於いて経費と根気に尽き放棄しようとした時、西中の持福院、院主が自ら土地家屋等を売却しこれを経費に、取り入れ口の場所を変え再度着手しました。
寛延2年6月21日(西暦1749年)通水にこぎつけることが出来ました。これが当時舟見野用水又は野中用水と言い、今の四千石用水です。

 

◆取水口の変遷

明暦3年(1656年)に中の口(愛本橋上流右岸中将松附近)から900mの隧道を経て用水路に接続したものでありました。その後、黒部川本流の移動に伴って愛本新地内飛弾ヶ渕(現在の黒東第1発電所)下の、中の口公園附近に移り、さらに中の口橋下に変更するなど取り入れ口の移動は何回もありましたが、安定して取水出来るようになったのは寛永2年と言われています。その後愛本堰堤を昭和3年着工昭和7年(1932年)に竣工し現在に至っています。

 

◆野中村外三ヶ町村用水組合の設立

明治23年3月(1890年)野中村・山崎村・五ヶ庄村・舟見町、で野中村外三ヶ町村用水組合を設立しました。

 

◆用水の発電所との関わり

大正6年(1917年)三重沃度(ようど)製造株式会社が工場用自家発電所を作るため、四千石用水・下山用水組合・椚山用水の三用水組合と交渉用水使用権を獲得しました。その後種々経緯があり、大正14年(1925年)黒部川電力が引き継ぎ、当時別々に取水口を持っていた四千石・下山・椚山・入善・青木・飯野各用水の6ッの取水口を合併し1ヶ所(現在の墓の木沈砂池)にしました。
その後、墓の木から西中まで縦江を共用し現在の黒東第2発電所水槽手前で分水し、これより本用水路は、西中、愛場を経て舟川を横断し、2分して本線は東流して山崎方面をかんがいし、一方、支線月山用水は県道朝日-宇奈月線に沿って北流し、朝日町柳田地内で小川河床下をサイフォンによって通過し、同町月山、西草野一帯をかんがいしています。
(*かんがい(潅漑)とは、水路を作って農作物に必要な水を引くことです)

 

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取水口・制水ゲート 今江用水取水口

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