外輪野用水の歴史

音川の丘陵地に広がる台地、外輪野地区はもとは無人の原野でした。
その開発のきっかけになったのは、むかし上杉謙信が戦のために陣地を築いたことからだと伝えられてはいますが、実際は小高い台地ですから水が不足で、米や野菜は殆ど作ることができなかったのです。

100年位たって柄谷川から水を引くようになり、初めて作物が作られるようになりました。元禄元年(1688年)、更に湯谷川からも水を引くようになりました。
ところが他の村から移り住む人たちも多くなり、新しい田んぼや畑の開墾が始まると、もっと大量の水が必要になってきました。

元禄6年(1693年)『何とかしてほしい』と願い出た杉原野(今の八尾町)村の江尻茂右衛門たちは富山藩から、もっと大がかりな用水の工事を始めるよう申しつけられました。そこでまず用水の取り入れ口を山田村の若土地内まで延ばすことにしました。
険しいがけを削ったり、岩をくり貫きトンネルをつくったり、いろいろな困難とたたかいながら工事が進められました。
測量や掘削には提灯やタイマツの光をたよりに進めたといわれています。たくさんの村の人たちの労力と莫大な費用がかかりました。

そして5年後の元禄11年(1698年)ついに用水全体に水を通すことができました。おかげで荒れた台地は美しい田んぼや畑に生まれかわったのです。

明治の初めまでは用水全体を富山藩が管理していたのですが、明治以降は村の人たちで管理することになりました。さらに昭和33年頃(農地改革後)からは「土地改良区」が管理しています。

用水開通後300年もたつと水路の傷みも多くなり、「安全に」水を流すためのに改修工事、水路トンネル工事が進められ、現在に至っています。

外輪野用水の守り神である鏡宮跡地には、由来の書かれた石碑が建立されています。

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